
名塩御坊 教行寺の始まり
名塩教行寺は、室町時代の文明7年(1475)、本願寺第8代宗主・蓮如上人のご教化に始まったと伝わります。
この年、蓮如上人は越前吉崎を発ち、丹波路を経て有馬郡名塩の地に立ち寄られました。応仁の乱で社会が揺らぐ中、名塩・中山の地で村人にお念仏の教えを説かれたといいます。その教えを拠り所とした人びとは、小さな念仏道場を建てました。のちに、村民の熱心な願いによって、蓮如上人の子息・蓮芸(れんげい)を初代住職に迎えた道場は、「教行寺」と称されるようになりました。およそ550年の歩みを略史年表でご覧ください。

略史年表

〈室町~戦国時代〉
念仏道場から始まる草創期
文明7年(1475)
本願寺第8代宗主蓮如上人、越前吉崎を退出し、丹波路をへて摂津に入る。その際、名塩に立ち寄り浄土真宗の教えを説く。
文明8年(1476)
蓮如上人、摂津富田(大阪府高槻市)に至り坊舎を創建する。
文明15年(1483)
蓮如上人、有馬に入湯。
文明16年(1484)
蓮芸(兼琇)、蓮如上人の八男として生まれる。
明応7年(1498)
蓮如上人、富田坊舎の寺号を「教行寺」と定め、八男蓮芸に譲る。(蓮芸15歳)
明応8年(1499)
蓮如上人、3月25日に山城山科において85歳で示寂。
(蓮芸16歳)
永正元年(1504)
第9代宗主実如上人から「教行寺摂州有馬郡/名塩郷内中山惣道場物也」(※)と裏書された阿弥陀如来絵像(開基仏)を賜る。(蓮芸21歳)
※法宝物「阿弥陀如来絵像一幅」→
裏書(うらがき)とは?
絵像や書物の裏面に記された文言。誰が、いつ、誰に授与したか記されており、来歴などを示す。
惣道場(そうどうじょう)とは?
特定の権力者ではなく、村の門徒(村民)たちが共同でつくり、維持・運営したお念仏の施設のこと。
永正6年(1509)
蓮芸、実如上人から「摂州有馬郡名塩/教行寺常住物也」と裏書された親鸞聖人御影を賜る。(蓮芸26歳)
※中山惣道場は「教行寺」となり、蓮芸が富田と名塩の教行寺住持を兼務。
大永3年(1523)
初代蓮芸、長男実誓に富田教行寺を譲り隠居した後、3月28日に名塩で示寂。(蓮芸40歳)その後、富田教行寺から蓮芸の次男賢勝が入寺して名塩教行寺を継ぐ
※のちに「広教寺(こうきょうじ)」と称する。
示寂(じじゃく)とは?
高僧や住職が亡くなるときの敬語表現。
天文19年(1550)
第2代賢勝(名塩式部卿)、有馬村秀から名塩および木下(木之元)に関する寄進状を受ける。
文禄3年(1594)
第3代賢超、教如上人(後に東本願寺)および教如上人に従った富田教行寺に与しないことを誓う文書を、准如上人(後に西本願寺)に提出する。
〈江戸時代〉
地域に支えられ名塩紙とともに
慶長19年・20年
(1614・1615)
賢超(名塩式部卿)、豊臣秀頼から二度にわたって禁制を受ける。
※法宝物「豊臣秀頼の禁制」→
これは、発給元である戦国時代の領主などが自らの軍勢に対し、発給先での乱暴や略奪を厳禁した文書であり、これによって名塩教行寺が豊臣軍から保障を受ける立場であったことが窺える。
元和3年(1617)
賢超、晩年に本堂を中山の地から現在地に移転する。鐘楼、太鼓楼など落成。
元和7年(1621)
第4代准超、『夏御文章』を書写する。
寛永11年(1634)
准超、第13代宗主良如上人の命を受け、一時「広教寺」と称した寺号を「教行寺」に復号する。
教行寺への「復号(ふくごう)」とは?
蓮芸ゆかりの「教行寺」という寺号(寺の名前)の寺院が、富田と名塩の同じ摂津に二ヶ寺あったことから、一時期、名塩は「広(廣)教寺」と称した。しかし、本願寺東西分派後、富田教行寺が東本願寺側となり、西本願寺側にその寺号がなくなったことから、再び正式に元の寺号である「教行寺」に戻ることになった。
なお、当寺所蔵の「教行寺系譜」によれば、「広教寺」の寺号を大坂願教寺に譲った旨が記されており、江戸時代にはこのような寺院名の変更がおこなわれていたことがうかがえる。
寛文4年(1664)
名塩の村民によって梵鐘が鋳造される。
元文5年(1740)
第6代寂幽、武田尾に温泉涌出し、これを村民から施入される。
宝暦11年(1761)
第7代湛然、西国へ勧進の旅の途上で示寂した父・寂幽の遺志を継ぎ、本堂(現在)を再建する。
〈明治~大正時代〉
寺領を失い、苦難の時代を超えて
明治2年(1869)
第10代本志(摂観)、勤王の功により権大僧都法印に叙せられ、本山に貢献する。
明治7年(1874)
沢静(第11代広有の子、第13代尊観の父)、京都にて25歳で死去。本志の甥である沢静が早世し、高齢の広有と幼い尊観が遺される。
明治11年(1878)
第11代広有(本志弟)、本志が高齢で後継がいないため住職となる。
明治13年(1880)
本志、弟である第11代広有が死去したため、再び住職(第12代)となる。
明治15年(1882)
6月 第13代尊観(第11代広有の孫)、13歳で中山家を相続する。
7月 本志、教行寺にて76歳で死去。
明治41年(1908)
名塩教行寺、本山の「別格寺資格規程」に基づいて別格寺となる。
本派法規類纂追加 - 国立国会図書館デジタルコレクション(外部リンク)
大正3年(1914)
尊観、本堂の修繕を行い、宗祖650回大遠忌法要を勤修する。
〈現代〉
昭和53年(1978)
第16代英観、第15代沃観から継職し、25歳で住職となる
現住職については「僧侶紹介」へ→
令和8年(2026)
ホームページを新しく開設する。
江戸時代、名塩村は「名塩紙」とよばれる和紙づくりを生業として発展しました。
村民の願いからはじまった教行寺は、やがて和紙の里の営みとともに、地域の人々に護持されながら歩みを重ねてきました。蓮如上人の時代から約550年——戦火を免れ、本願寺東西分派、寺領喪失、後継の早世など幾多の困難を越えながら、名塩の地で浄土真宗の教えを受け継いでいます。

歴代住職

| 歴代 | 法名 | 生没年 |
|---|---|---|
| 初 代 | 蓮芸(れんげい) | 1484ー1523 |
| 第2代 | 賢勝(けんしょう) | ー1560 |
| 第3代 | 賢超(けんちょう) | 1554ー1620 |
| 第4代 | 准超(じゅんちょう) | 1592ー1680 |
| 第5代 | 寂超(じゃくちょう) | 1644ー1696 |
| 第6代 | 寂幽(じゃくゆう) | 1693ー1743 |
| 第7代 | 湛然(たんねん) | 1727ー1786 |
| 第8代 | 法瑟(ほうしつ) | 1759ー1790 |
| 第9代 | 文瑟(もんしつ) | 1773ー1813 |
| 第10代 | 本志(ほんし) | 1808ー1882 |
| 第11代 | 広有(こうゆう) | 1810ー1880 |
| 第12代 | 本志(ほんし)※復職 | (1808ー1882) |
| 第13代 | 尊観(そんかん) | 1870ー1948 |
| 第14代 | 琇静(ゆうじょう) | 1902ー1988 |
| 第15代 | 沃観(よっかん) 略歴PDF→ | 1925ー2012 |
| 第16代 | 英観(えいかん) | 現住職 |

蓮如上人のご生涯

蓮如上人(1415~1499)は本願寺第8代で、浄土真宗の「中興(ちゅうこう)の祖」とされる人物です。
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第7代・存如(ぞんにょ)上人の長男として京都の大谷本願寺で誕生しました。永享3年(1431)17歳のとき青蓮院で得度し、その後は存如上人から浄土真宗の教えを学びました。また、たくさんの聖教(しょうぎょう)を書写するなど父を補佐するとともに、関東の親鸞聖人旧跡などを巡る布教の旅にも同行しました。
誕生の地map①大谷→
存如上人が示寂(じじゃく)したのち、蓮如上人は43歳で本願寺を継ぎました。
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継職後は本願寺の改革に積極的に取り組み、参拝者は増加しました。しかし、本願寺の改革によって、比叡山の宗教的価値観や権益と相反するようになり、次第に比叡山から敵視されるようになりました。寛正6年(1465)には、比叡山の衆徒によって大谷本願寺は破却(はきゃく)されるという大きな苦難に直面しました。
しかし、寺を失うというかつてない逆境にあっても、蓮如上人は教化(きょうけ)の道を歩み続けました。多くの人々に支えられて近江を転々としたのち、新たに越前吉崎に坊舎を建立し、北陸教化の拠点を築きました。蓮如上人は、みずからたくさんのお名号(みょうごう)を書いて授与するとともに、浄土真宗の教えを消息体でわかりやすく記した「御文(おふみ)」(のちに「御文章」)を各地の門徒に送り、お念仏の教えを伝えることに尽力しました。この吉崎には北陸地方だけでなく、遠く信濃や奥羽からも参拝者が訪れ、繁栄をきわめたと伝わります。
近江流寓と吉崎進出map②③④⑤→
やがて文明7年(1475)、在地勢力との軋轢が激化したため、蓮如上人は吉崎を退出し、若狭から丹波路を経て畿内へ移りました。
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その際に摂津の名塩に立ち寄り、人々にお念仏の教えを説きひろめました。蓮如上人が去った後に草庵が設けられ、「中山惣道場(そうどうじょう)」として名塩の人々によって守られ、のちに名塩教行寺となりました。その後蓮如上人は、河内出口(後の光善寺)を拠点として、摂津富田(後の教行寺)、堺(後の堺別院)に相次いで坊舎を建立して精力的に教化をおこないました。このように蓮如上人が教えを説いたあとには、お念仏の道場が次々と開かれ、浄土真宗の地域の拠点となる坊舎も築かれていきました。
畿内に坊舎建立map⑥⑦⑧⑨⑩→
大谷本願寺が破却されてから約20年後の文明15年(1483)、蓮如上人は山城山科の地に本願寺を再興しました。
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当時の城郭技術を用いて築かれた山科本願寺は、後に広大な寺内町(じないまち)へと発展して「仏国土の如し」と評されるほど繁栄しました。この山科本願寺は、天文元年(1532)の焼き討ちにあうまでの間、本願寺教団の基礎を固める拠点として大きな役割を果たしました。
「本願寺」再興map⑪山科→
延徳元年(1489)、蓮如上人は75歳のとき、五男・実如(じつにょ)上人に宗主の座を譲り、山科の南殿に隠居しました。
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しかし、宗主の座を退いた後も大坂に坊舎を創建し、「南無阿弥陀仏」のお名号を書き与え、各地の門徒に「御文」を送るなど、最晩年に至るまで布教に励みました。
宗主引退後map⑫大坂→
子息たちに事後を託した蓮如上人は、明応8年(1499)3月25日に山科本願寺で85歳の生涯を終えました。
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多くの困難にあいながらお念仏の道を歩んだ蓮如上人は、今日まで受け継がれる浄土真宗の礎を築いた宗主として、今なお、多くの人々に深く敬愛されています。







