
法宝物(ほうほうもつ)とは?
一般には規則や道理を意味する『法』ですが、浄土真宗において「法」とは、阿弥陀如来の願いそのもの、時を超えて変わらない、真実のはたらきのことです。「宝」とは、かけがえのないもの、本当の意味で人を豊かにしてくれるものです。「物」とは、形のあるものをいいます。
仏さまの教えである「法」そのものは、目に見えず、手で触れることもできません。しかし、仏さまの教えが、縁あって、ある時、ある人の手を通じて形になり、かけがえのない歴史の一部として受け継がれてきたもの―――それが「法宝物」です。
名塩教行寺に所蔵されている「法宝物」をご紹介していきます。

阿弥陀如来絵像 一幅

室町時代・永正元年(1504)
絹本著色 縦126.5㎝×横49.5㎝
名塩における浄土真宗のはじまりを示す、重要な阿弥陀如来絵像です。
▷概要:永正元年、本願寺第9代宗主・実如(じつにょ)上人から「名塩郷中山惣道場(そうどうじょう)」へと授与され、当寺初代・蓮芸が護持していた念仏道場にご本尊として安置されました。これが、現在の名塩教行寺にとっての「開基仏(かいきぶつ)」です。
▷ご本尊として長く掛けられたことを示すように裏書※(うらがき)は摩滅していますが、表の絵は当時の色彩を鮮やかに残しています。濃紺の背景に四十八条の光明を放ち、蓮台上に立つ長身の阿弥陀如来。その衣には、細やかで多様な紋様が施されています。戦国期に本願寺から授与された絵像としては稀にみる大きさであり、そのお姿は当時の信仰のあり方と優れた技法を今に伝えています。
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▷裏書※について
裏書は、絵像や書物の裏面に記載された文言のことで、誰が、いつ、誰(願主など)に授与したかなどの情報を示しています。この裏書は、破損が進んでいますが、当時、宗主から授与される裏書の典型的な様式をそなえており、授与者の部分の「釈実如」もかろうじて読み取ることができます。また、特定の願主名が記されていないことから、当時の名塩郷では門徒たちが共同で道場を運営し維持していたことがわかります。
なお、「教行寺摂州有馬郡名塩郷内中山惣道場」の記述から、当時、富田教行寺の住持であった蓮芸が、名塩の村内にある「中山惣道場」も預かっていた様子がうかがえます。



名塩本御文章集
(全4冊)

書写年代 江戸時代初期
▷概要:名塩教行寺に伝わる「名塩本御文章集(なじおぼんごぶんしょうしゅう)」は、最大の収録数をほこる御文章集の一つです。全4冊からなり、前3冊には年紀のある御文章を年代順に配し、最後の1冊には年紀を持たないもの(無年紀)を収めた、約250通を収録する和綴じの書写本です。ただ、いつどのようにして、これだけ多くの「御文章」を集めたかについては、ナゾの多い聖教です。
▷蓮如上人の教えを伝える「御文章」の歴史:「御文章(ごぶんしょう)」とは、本願寺第8代宗主・蓮如上人が門弟に宛てて、浄土真宗の教えの肝要を手紙の形式でわかりやすく記したもので、「御文(おふみ)」とも呼ばれます。
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室町時代末期に第9代宗主実如(じつにょ)上人が、これらの中から重要なものを選りすぐって、全5冊80通からなる「五帖(ごじょう)御文章」として編集され、さらに次の証如(しょうにょ)上人の時に木版(もくはん)印刷されました。こうして江戸時代以降、「五帖御文章」は寺院や家庭で広く拝読されるようになり、今日でも日常お勤めや布教の場で親しまれています。
▷「名塩本御文章集」の特徴:本書の最大の特徴は、広く読まれた「五帖御文章」に含まれない「帖外(じょうがい)御文章」と呼ばれる御文章が最も多く収録されている点にあります。これにより、本書は蓮如上人が発したことばの全体を知ることができる非常に貴重な聖教として、江戸時代から学僧などにも重用されてきました。
また、御文章が年代別と無年紀のものに大別され、さらに類似した内容のものが複数まとめて収録されていることも大きな特徴です。蓮如上人が、いつ頃、どんな御文章を記したかうかがうことができます。
いまだにナゾは解明されていませんが、当時の蓮如上人の考えや布教活動を知ることができる重要な書物です。
▷護り継がれた聖教:名塩本御文章集は、蓮如上人のことばや生涯を今に伝える貴重な聖教として、当寺の歴代住職が大切に護り継いできました。
古典籍デジタルデータ化記事
2024-03-09リンク→


豊臣秀頼の禁制

江戸時代 慶長19年(1614)
大坂冬の陣に向けて、豊臣秀頼が名塩御坊宛てに出した禁制
▷概要:これは、名塩教行寺第3代・賢超(名塩御坊式部卿)に宛てて、豊臣秀頼が出した「禁制(きんぜい)」です。当寺には、秀頼から慶長19年と翌20年に出された同形式の禁制が二通伝わっており、本書がその一通目にあたります。
▷禁制の内容:この禁制には、豊臣秀頼がみずからの軍勢と関係者に向けて、名塩御坊とその周辺で乱妨狼藉・放火・竹木伐採を禁じ、それを犯した者は厳罰に処することが記されています。これにより、当時の名塩御坊が預かる地域について、豊臣方から保護の対象として扱われたことがわかります。
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▷歴史的背景:慶長19年(1614)10月上旬、豊臣氏が建立した方広寺の梵鐘(ぼんしょう)銘文について、徳川方が豊臣方に疑義を呈したことで両者の政治的緊張感が一気に高まりました。そして、翌11月には大坂冬の陣が勃発しました。10月21日に出されたこの禁制は、開戦にむけた緊迫した情勢の中で発給されており、豊臣方が名塩御坊をみずからの勢力下に置こうとした意図がうかがえます。
▷激動の時代と第3代賢超:石山合戦の後におこった本願寺の東西分派には、豊臣秀吉や徳川家康も関係していました。本願寺は豊臣秀吉から現在の西本願寺の地に移転するよう命じられ、秀吉の没後には、教如(きょうにょ)が徳川家康から現在の東本願寺の土地を寄進されるなど、東西の本願寺はそれぞれ政治的な権力者と深い関係がありました。当寺の第3代賢超は、豊臣方に縁が深い西本願寺方に与していた事実を踏まえると、この禁制は時代状況を示す史料としても貴重な古文書です。








