愚 僧 独 言
最近、「AI供養」という言葉を耳にするようになった。故人の音声や映像データをAIに学習させ、生前の声や表情、話しぶりを再現するという。残された人の心を慰めるという声もある。
しかし、どれほど忠実に再現されても、それは私たちと共に生きたあの人そのものではない。変わらぬ姿で話す映像を前に、私たちは本当に感謝や畏敬の気持ちで手を合わせられるだろうか。むしろ、生と死の現実から距離を置くことにならないだろうか。
人は、故人との出来事をそのままの形で記憶し続けるのではなく、悲しみや後悔、感謝といった感情の中で思い起こし、意味を探し直す。その時間は、一見無駄に思えるかもしれないが、自分の命や生き方を見つめ直すために欠かせないものである。
私もAIの便利さに助けられているし、AIによる記録保存を否定するつもりはない。だが、先立った人を尊び、その不在と向き合う「供養」は、人間らしい営みであり、心を育て支える大切な時間だと考える。
南無阿弥陀仏
名塩教行寺のウラ庭
@NAJIO.KYOGYOJI


